Aesthetic Life – Automatic
より健全なコラージュは自動装置(オートマチック)を微調整し、昏睡状態のシュルレアリストたちを誉めそやす/…/巨大な騒ぎは続いて起こる/…
ピーター・スティックランド 『Automatic』より
全ては1冊の本から始まる。アミカン・トーレンがローマ滞在中に描いた、どこか欲望を喚起するオートマチック・ドローイングは、ピーター・スティックランドの手に引き渡された。オウィディウスの『変身物語』巻15「ジュリアス・シーザーの神化」からシーザーの暗殺を予兆(portents)するいくつかのセンテンスが抽出され、それはまたオートマチックに分節化されると、オートマチックにドローイングを欲望しては渾然一体となり、遂にはこの世界を予兆する70章の新たなテキストとして再生産される。『ROME automatic』はかくの如く存在する。
本という形式はオートマチックを欲望する。本を手に取るという行為はまさにオートマチックであり、人はオートマチックにページを繰るだろう。ページはまた次のページへとオートマチックに受け渡され、オートマチックに物語を発生させるだろう。オートマチックな空間に立ち上がった物語は、また受け手によってオートマチックに欲望され、新たな物語としてオートマチックに読み替えられねばならない。
『ROME automatic』は、展覧会の企画者のひとり平田星司によって日本語空間に解放される。時空は歪みながら古代ローマから英国を経て日本に到達するが、またそれは同じ筋道を遡っていく行為でもある。全てはオートマチック自身の欲望なのだ。「エステティック・ライフ」とは、1996年にロンドンで開催された『The pleasure of aesthetic life』展と、それを企画したアミカン・トーレンに捧げるオマージュである。そして全てはオートマチックが仕掛けた欲望であり、そして罠でもある。
巨大な騒ぎは続いて起こる…。ウエダ リクオは風を奏でる装置として、オートマチックにドローイングを生成するシステムを構築する。詩は生まれ言葉は生まれる。小林潔史は手のひらに自身の体温と地球の重さを感じる。だがそれが真にオートマチックを纏うのは、手のひらに自らの死をそっとのせてからだろう。言葉は失われる。
鈴木智惠の眼は自らの皮膚である服を捉える。服を縫う眼とそれを板上にトレースする眼はオートマチックに等価である。平田星司は支持体とメディウム(皮膜/皮膚)の関係あるいは無関係を宙吊りにし視覚化させる。プロセスは常態的にオートマチックである。中根秀夫は観る者の記憶に交感する視覚装置を調整する。水滴はオートマチックに流れ落ち、意識の中で視覚は失われる。
[ H.N ]