投稿者「hideonakane」のアーカイブ

ホームページの更新(最終版)

automatic12

展覧会場の風景を含むページを追加しました。こちらからご覧ください。

手前:平田星司 Propagandists 2014〜2015年 海中から拾ったボトル、海綿他
奥:中根秀夫 Memories 1995年~  1770 x 840 mm(2枚) 青焼コピー(褪色していく)、ラミネート

展覧会の終わりに(中根より)

2週間にわたるエステティック・ライフ – オートマチック展は先日19日をもって終了いたしました。お忙しい中ご高覧いただきありがとうございました。また展覧会のサイトやブログを見てくださった多くの方々に心より御礼申し上げます。私はこの展覧会で主に広報を担当していましたので、宣伝的な投稿が続きましたがどうかご容赦ください。今は展示も無事終わりましたので私個人として展覧会を振り返ってみようと思います。

そもそも「エステティック・ライフ」も「オートマチック」も、平田星司氏が持ってきた概念なので、中根/平田の二人の企画展とはいえ今回の主役は実際には平田氏なのです。5年前のこと、平田氏の師であるアミカン・トーレン氏が企画した『The pleasure of aesthetic life』展(1996年)について熱く熱く語る平田氏の顔をぼんやりと眺めながら、ひとつの「展覧会」がこんなにもひとりの人間を揺り動かし、その魅力を他の人に必死に伝えたいという情熱が発生するという事実に興味を持ちました。私自身はその展覧会を見たわけではないし、実際には「情報」として考えればはあまりよく理解出来なかったにもかかわらず、「こんな展覧会をやりたいね」という気持ちは、強く強く伝わってきたのです。面白いことに今回の展覧会にテキストを寄せてくださった鎮西芳美さんも同じようなことを書いていました。

私自身(ここ1年以上さぼっていますが)『展覧会めぐり日記』というブログを書いていて、「展覧会」というシステムに興味を持ち、作品の面白さや企画者の意図を自分なりに読み解いてみることに喜びを感じてはいましたが、これほどまでに人の気持ちを動かす、そしてかれこれ20年も「この展覧会は素晴らしかった」と語り続けられるような展覧会があったかと言われると…。平田氏が「自分が見たい展覧会を作りたい」といった時、なんとかして「それ」を実現してみたいと私も思ったわけです。私と平田は長い付き合いの中でそれぞれの「得手不得手」をなんとなく認識していて、役割の分担に関しては意外にスムーズでした。私の方が平田氏よりコンピュータの前に長く座っていることが得意であるという暗黙の了解の上で、広報的なこと(ホームページやブログの管理、チラシやDM、ブックレットの制作)や各作家との連絡係りなどを引き受けましたし、平田氏の方は棚や 台を作ったり、そして主には『ROME automatic』の翻訳という展覧会の主軸となる大きな役割を担ったということです。

「中根はキュレーターのようなことをやりたいのか?」と何人かの方に聞かれましたが、私はただ平田氏の頭の中にある『エステティック・ライフ – オートマチック』という概念を、展覧会の形に落とし込むための役割を引き受けただけであり、そうでなければこんなに負荷のかかる仕事はできないと思うのです。私たちの目論見を展覧会としてを実現するために「美術館の展覧会」というフォーマットを参照して、広報活動や関連イベントを組んだりしたわけですが、この小さな展示をあるまとまった形にするだけでもゾッとするような仕事量であるのに、実際に今回トークに来てくださった李美那さんや鎮西さんのように学芸員として大きな展覧会を動かすことを思うと…。自分には絶対に無理です。むしろ作品を作ることに集中したいと思うのが本音です。

ちなみに李さんは開催中の展覧会でのご自分のトークがあった直後に私たちのイベントに駆けつけてくださり、鎮西さんは自分の展示や集荷・返却の作業で忙しい中テキストを書いて、なおかつ他の企画展のオープニングで多忙を極める中トークセッションにも駆けつけてくださいました。自分にはちょっと真似できないようなプロフェッショナルなお二人には本当に感謝しているし、畏敬の念をいだいている次第です。また、今回の展覧会の中では仕事量的に不可能だと諦めていた音楽のイベントを、敬愛する宅シューミー朱美さんから「お友達企画」として近くのライブハウスを開催していただけるという申し出を受けました。このようにして『エステティック・ライフ – オートマチック』展がひとつの展覧会として重層的になったことをここに記しておきたいと思います。

展覧会にいらしてくださった方は、平田氏が直々に『エステティック・ライフ – オートマチック』展ことや出品作家のこと、あるいは『ROME automatic』のことについて熱く語る姿を目撃された方も多いのではないでしょうか。そういう意味で私たちが目指した「自分が見たい展覧会」というテーマは実現できたのではと思っています。この展覧会の3回展、4回展をと言ってくださる方もいらっしゃるのですが、私としては「エステティック・ライフ」という大きな課題は今回で完結したかな、という気持ちです。おそらく平田氏も同じ考えだろうと思います。「オートマチック」という概念の通り私たちの展覧会が「情熱」として誰かに、あるいは他の空間に伝染していくかどうかはわかりませんが、またどこかでこのような形の展覧会が開催されることを、他人事のようですが楽しみにしております。

 

過去は現在を決定する。その衝撃をよく考えてみるべきなのだ。これは単に形式的なことでなく、個人的な経験からなのだ。私が年をとり、過去の出来事から遠く隔たったのに、過去それ自身が迫ってくる(ノスタルジアとかそんなものではなく!)。すでに歴史の中に葬られてしまったであろう私の若かった頃の出来事が、まるで今起ったかのようなのだ。時間と歴史はもうリニアな経験ではすまない… ギャラリー内には7人のアーティスト(まだ生きていようと既に死んでいようと)がいる。今、彼らの作品は調和している – そんな準備がこの単色の空間にはできている… ここには全て静寂が与えられている。たぶんそれはあなたが選んだ作品のそれぞれが、内省的だからである – つまり単なる物語的な意味以上のことを考えてくれるよう促しているのだ。

P1000348

《白いカガミの中に 1、2》 2015年 420 x 298 mm 鏡、サンドブラスト加工、アルミニウム

展示はいよいよ本日(19日)17時までです

昨日は李美那さんを囲んでのトークに多くの方々がお越しくださいました。この場をお借りして御礼申し上げます。参加者で私にとっても李さんにとっても先輩である故小林潔史さんについて、この20年の日本の日本の美術の流れを俯瞰しながらお話をしてくださいました。
さて、展示は本日17時までとなっております。どうぞお見逃しなく。

IMGP1740 IMGP1795

小林潔史さんのこと/李美那さん(神奈川県立近代美術館学芸員)のトーク

5年間で5800個という驚異的な小宇宙を作り1994年30歳の若さで亡くなった「ロイヤルさん」こと小林潔史さん。今回ご遺族から晩年の作品から28個をお借りして展示しています。そして、18日(土)17:30より 当時の小林さんを知る李美那さん(神奈川県立近代美術館学芸員)のトークがあります。李さんの担当された2011年の神奈川県立近代美術館葉山館で開催された《ベン・シャーン》展は記憶に新しいですね。また現在開催中の《ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く》展を担当され、ご多忙の中トークにいらしてくださいます。入場無料。

IMGP1716-Edit

P1000356

P1000353

P1000392これは最後に入院する前1ヶ月ぐらいのものから。


 

私は留学先のロンドンで「ロイヤルさん」の訃報を聞きました。1994年12月。下は私の94年11月の作品。日付が041194と入っている。ロイヤルさんは入院中か。

IMGP1758

ロイヤルさんの《5746 1993.9.3 白いカガミの中に映る顔》2014-12-13 10-59-30

下は《5746 1993.9.3 白いカガミの中に映る顔》をもとに作った私の作品
《白いカガミの中に》1995年 カガミ、サンドブラスト加工。

IMGP1759よく見えない…。カガミの中に閉じ込められた自分。

展覧会もこの週末を残すのみ。是非いらしてください。

宅 Shoomy 朱美さん企画ライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version

宅 Shoomy 朱美さん企画によるライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version
宅 Shoomy 朱美 さん( P.Vo )、かみむら泰一さん(Ts・Ss)、落合康介さん(B)実はジマジンにはfenderローズが! シューミーさんとローズは相性バッチリ。楽しかった!ありがとうございました。

P1000480 P1000509 P1000526 実はゴジラの話で盛り上がっている3人。

P1000555 P1000578

IMG_2434ローズの中身。コイルが見える。

エステティック・ライフ - オートマチック展は19日(日)まで

エステティック・ライフ - オートマチック展は19日(日)まで。いよいよ残り4日間となりました。皆様どうぞお見逃しの無いよう。

P1000346 平田星司 《Dalilah 》 2015 27 x 26 cm キャンバスに水彩、アクリル

P1000375中根秀夫 《Memories 1994  1770 x 840 mm(2枚) 青焼コピー(褪色していく)、ラミネート

前回の平田/中根の二人展から5年間、アミカン・トーレン氏の企画した伝説的展覧会『The pleasure of aesthetic life』を受けて「自分たちが見たい展覧会」について二人で語り尽した結果の今回の展示。

ウエダ・リクオさんはアミカン・トーレン氏が光州ビエンナーレで会った「素晴らしい日本人」の作家という名前すらわからない状態から平田が探し当てた作家であり、鈴木智惠さんは知人の作家の出品する大きなグループ展で偶然見つけた作家であったりする。それこそ「初めまして」から、そして企画書を送って「こういう趣旨の展覧会に作品を貸していただけないか」と懇願して参加していただいたのだ。小林潔史さんは30歳の若さで亡くなった先輩で、ご遺族で小林さんの弟である篤史さんとお墓参りに行くところから始まった。

今回の展示がアーティスト同士で行うグループ展と違うのは、企画者である私と平田がそれぞれの作家の出品作品までを決めているという点にある。エステティック・ライフというテーマで、そしてオートマチックというテーマにふさわしいものを時間をかけて吟味した。大阪までウエダさんに会いに行ってドローイング3点を決めてきたし、小林さんは5800個からカタログで吟味した。難しい決断だが時期と形態の特徴、そしてタイトルから28個に絞った。ご家族がいらして「私の誕生日の日のが無い!」と仰られた時にはさすがに申し訳なく思ったが、でも作品も展示方法も本人不在(当然だ)で、ノートを参照しながら私たち自身が決めた。鈴木さんは4度展覧会に足を運び、これ以外無い大型の版画3点を選んだ。結果として2010年と2011年の作品となり、若い気鋭の作家にとっては最新作を選べず可哀想なことをした。それでも私たちが全て責任を持ってこのエステティック・ライフ - オートマチックという展覧会を構成したのだということはここに記しておきたい。そう、テキストをいただいた鎮西芳美さんも、私がこれまで見てきた多くの展覧会のカタログの文章を吟味して、このテーマに最もふさわしい方として「是非に」とお願いしたのだ。幸いにしてどなたからも断られなかったことは私たちの誇りだが、そんな企画書がいきなり自分のところに届いたらかなりビビるだろうと、本当に申し訳無く感じてはいる。

すでに多くの作家の友人が訪れてくれたし、美術以外の友人も展覧会を楽しんでくれている。ふらりと一人で来た友人が奥さんを連れて再び訪れてくれたのは嬉しかった。小林さんの作品を通して多くの人が繋がり足を運んでくれていることも感謝している。(中根)

4月15日(水)はお休みです!!

展覧会も後半に入り盛り上がってきたところですが15日(水)は休廊しております。どうぞお間違えのないよう宜しくお願い申し上げます。

エステティック・ライフ – オートマチック展は19日(日)までです。

2015-04-13 16-13-35 2015-04-07 18-18-16

中根の作品の反射《Memories》。平田の作品《Propagandists》。木曜以降たくさんの方がいらしてくださいますよう。

さて残り1週間となりました。

エステティック・ライフ – オートマチック展。天気の思わしくない1週間でしたが、多くの方に展覧会に足を運んで頂いております。また1回目のトークセッションでは東京都現代美術館の鎮西芳美氏をゲストにお迎えし、大阪からのウエダ リクオ氏を加え素敵な時間を過ごすことができました。ご参加いただきました皆様にはあらためて御礼申し上げます。あと1週間、どうぞよろしくお願い申し上げます。

今週のイベントとしては4月16日(木)に特別連携企画として宅 Shoomy 朱美さん企画によるライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Versionが、外苑前のZ.imagineで(トキ・アートスペースから徒歩5分)あります。16日( 木 )は当日は画廊も19:30までオープンしますので、皆さまもぜひ展覧会→ライブとお楽しみください(詳細は下に)

また18日(土)17:30~ には神奈川県立近代美術館の学芸員李美那さんを囲んでトークセッションがあります。生前の小林潔史氏を知る学芸員として、彼の作品についての話を交えながら今回の展覧会についてお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

 

4月16日( 木 ) 外苑前 「Z・imagine」
“ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version

宅 Shoomy 朱美 ( P.Vo )
かみむら泰一(Ts・Ss)
落合康介(B)
open 19:30 start 20:00
charge ¥2500(drink 別)
ジマジン TEL:03-3796-6757
港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F
地下鉄銀座線外苑前、2番3番出口すぐ
詳細、予約等はジマジンにて

写真は新進気鋭の版画家鈴木智惠さんのリトグラフです。彼女自身が作る服を版画に起こしたもの。服を縫う時間、そしてリトグラフの版に取り組む時間はまさにエステティック・ライフ。彼女の視線の先を追いかけて見てください。

2015-04-07 17-16-36

Aesthetic Life – Automatic のための覚え書き

鎮西 芳美 Yoshimi Chinzei

本展は、2010年に中根秀夫・平田星司両氏が企画した『Aesthetic Life』展の続編である。前回の展示は、1990年代半ばにロンドンで美術を学んでいた二人が、帰国後各々の発表を経て後いわば満を持して提示したものであったものと言う。「と言う」としたのは、残念ながら私はそれを見ておらず、だから本当は、このようなテキストを書くということに、正直、戸惑いを感じてもいる。一方、彼ら二人の企画の端緒が過去に行われたひとつの展覧会であったということは、日頃美術館で展示に携わっている私にとって特に興味深いことであった。したがって、拙文を寄せるにあたって何か接点を探すとすれば、やはり「展覧会」ということになろうか。これより先、それを頼りに「aesthetic life」について考える糸口を掴みたいと思う。

**

 さて、その1990年代半ばの95年というのは私の勤めている美術館が開館した年で、その3年後の98年、同時代のイギリス美術を紹介する『リアル/ライフ イギリスの新しい美術』が開かれた。90年代のイギリスの“アートシーン”はいわゆるYBAs(Young British Artists)の席巻として語られてきたが、その嚆矢は1988年のダミアン・ハーストによる企画展『フリーズ』といえる。なので、展覧会が開催される98年というのはそれから10年が経過した時期で、結果、作家の世代的にも作品のタイプ、制作年に関しても、幅を持った作品が選ばれたように記憶している。現地調査は96年と97年に実施され、私は97年のそれに参加した。企画者二人の英国体験と重なる時期を少しく含んでいる1。

展覧会の出品作家の一人、アニャ・ガラッチョ(Anya Gallaccio 1963年、スコットランド、グラスゴー生まれ)は、その中で唯一、本展の起点となったアミカン・トーレン氏の企画展『The pleasure of aesthetic life』(1996, The Show Room, London)と出品が重なっている作家である。彼女の作品について少し詳しく述べよう。彼女の当時の作品は、しばしば有機的な素材を数多集合させ、その経過や劣化の様子を提示し続けるという特徴を持っていた。いわば時間と空間の制限において成り立つ作品である。私たちの展覧会では、壁面とガラス板の間に赤いガーベラを挟み、会期中いわば放置する作品(Red-Door, 1998, ガーベラ、ガラス)などを展示した。およそ2カ月の会期をとおして花は枯れてゆき、生気は失われ、全体がおおよそ暗い色調に変化を遂げる作品で、今振り返っても、私たちは誰一人「同じ」作品に出会っていないのだということにあらためて驚く(あるいはそもそも「同じ花」があり得ようか?)。トーレン氏の展覧会に出品された、木製の脚に置かれたガラス板の上で無数のろうそくが燃え続ける作品(No Better Place Than This, 1995, ろうそく、ガラス、木)も同じ頃の制作である。双方とも、時間の経過とともに、作品の外見のみならず、匂いや、明るさ、後者の場合は温かさといったその場の空気までをも変容させる性質をもち、作家本人が写真記録を作品としていない以上、まさにその場においてのみ成立する作品であった。「時間の経過とともに」と述べたものの、私たちが展示の場にいる「時間」は実際その「経過」を緊と感じるほどではなかったりする。「経過」を感じるには、きわめて微細な観察、あるいはその作品の“ここにはない拡張された過去と未来”を想像するしかない。作品の“ある状態”との出会い、という事態こそが彼女の作品の要諦の一つであり、それは広く時間と空間をめぐる洞察へと私たちを誘うものだ。このようなガラッチョの作品は、「イギリス、現代」というより大きな括りを背景に社会の現在に対する批評的な問いかけを含む作品群を多く紹介した私たちの展覧会の中では、少し異質であったように思う。素材的にも内容的にも、そしておそらく参照している過去の作品の伝統においても。しかしそれゆえかえって印象的であったのは、それが群を抜いて内省的で、したがって作品の含む意味の射程が広いこと、そして何と言うか、静けさがあったことだ。予め設定された枠組みや領域の思いがけない逸脱として見えてくる部分、そこにこそ、その作品を成り立たせる何か核のようなものが潜むといえそうだ。

対して、トーレン氏の展示ではどうだったのだろうか。60年代から90年代という幅広く多様な作品から構成された展覧会についての自身のコメントは「この展覧会はテーマがない」というものだ。個々の意味を固定してゆくストーリーやコンテクストではない、「別の何か」の表明がここではタイトル(『The pleasure of aesthetic life』)によってなされている。ガラッチョの作品はその中で、いわば文脈を宙吊りにされてそれ自身が在り、同様の仕方で在る他の作品と関わり合うことになる。『リアル/ライフ』において彼女の作品が垣間見せたその射程の広さは、トーレン氏の空間においてまた異なる相を見せていたはずだ。

どちらが良いかという比較は無意味だろう。しかしここで端的に(自分に引き付けて)思うのは、私たちは昨今、テーマを掲げた展覧会を見る流儀があまりに染みついているのではないかということだ。特に美術館における「展覧会」のフォーマットに浸っているうちに(それは歴史的には相当浅いものであるはずなのに)、作品にかかわる別の仕方、他の可能性はつい後方へ退いてしまう…。意味のない組み合わせはあり得ないとしても、別様の作品体験の可能性があるのではないか。「美術」の辿ってきた歴史を振り返ればそれはむしろ基本的なことで、作家たちはそのことにずっと前から気づいていて、その可能性を常にさぐっていたし、今もいる。60年代の作家たちの行動はそれを端的に裏付けるだろう2。しかし、「展覧会」の姿をとったトーレン氏の企画もそれを志向していると言えないか。形式としての「展覧会」を、作品本体の力によってその内側から、自ずから更新してゆくこと、そのように思われる氏の展示はそれゆえに美術館で働く者にとって考察を促すし、魅力的に映る。

作家である二人の企画者によってここで目指されているのも同様の可能性と言えるだろう。それをたとえば、別様の、ある作品体験の可能性、と呼んでみると、彼らがトーレン氏からいわば移植された「aesthetic life」の一面が見えてくるのではないだろうか。「感性的知覚(aesthêsis)」を語源とするこの語は、ひろく感受性、感性について問い考えるものと捉えられる。「感性とは、刺戟に応答する身体化された記憶の活性」である。外からの刺戟は内に反響し、ふだんは意識化されない細部、散らばった要素が一挙に総合される。感性とは、より深くは「対象の(あるいは世界の)性質を知覚しつつ、わたしのなかでその反響を倍音として聴くはたらき」であり、その「反響の空間」は「実存の領域」にまで及ぶ3。それは個々の作品について生じることもあるが、ひろく自然、現象などに対しても起こる。あるいは(これは個人的に不思議なのだが)、展覧会の最初の部屋に足を踏み入れた途端、文脈や意味の手前で「これはよさそうだ」と不意に思えたことはないだろうか?本展『aesthetic life』について言うならば、それが何よりも過去の展覧会の記憶に端を発していることをここで今一度強調したい。その展覧会の「よさ」について、企画者の一人である平田氏は繰り返し述べていた。曰く、それぞれの作品の性質、作品同士の目配せ、メディアの制限を設けない自由さ、わくわくするような感じ…。その「よさ」の感覚を反芻できること――自身のなかで記憶が倍音となって反響していること――はまさに「pleasure of aesthetic life」であるというべきだろう。決して残ることのないガラッチョの作品が想起され、語られることも。

**

 このたびの展示では、「Automatic」という語が登場した。前回は二人展として構成されていたものが、今回はあらたに3名の作家(および1冊の本をめぐる2名のイギリス人アーティスト)を迎えてのグループ展になるという。個々の作家、作品を緩やかに集合させたのは「automatic」という語(あるいはシステム?)だと聞いている。その出会いにおいて生じる「反響」を待ちたい。

ところで「反響」は、こちらからの働きかけでありながら、むしろ作品がこちらに対してそれに向かわせる呼びかけであるといえる。「テーマのない」展覧会は、その意味でじつはより高い壁であろう。

そう、その呼びかけはどうなされて、誰がどう受け止め、あるいは受け止め(られ)ないのか。その呼びかけに対する応答――「反響」は「automatic」といってよいのか、どうか。私はここまで「作品」について述べてきたけれども、「aesthetics」は、自然界の現象や社会自体といった私たちの外側にあるものを広く対象とするのだった。そのとき「automatic」は、言葉遊びにしてはいささか不穏なものとなろう。それは私たちの意識を感染させてゆくだろう、そこになお響く「倍音」とは。

[ちんぜい よしみ 東京都現代美術館 学芸員]

1 『リアル/ライフ イギリスのあたらしい美術』展、1998年4月12日から1999年3月14日にかけて、栃木県立美術館、福岡市美術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、芦屋市美術博物館を巡回。なお、作品データ等を除く当展についての記述は筆者個人の見解である。

2 数多の美術動向に加え、1972年に開催された『ドクメンタ5』に対する、カール・アンドレ、ロバート・モリス、ロバート・スミッソンらの抗議文など。

3 佐々木健一『日本的感性』2010年、中央公論新社、pp.8-18

 

参考図版『リアル/ライフ イギリスのあたらしい美術』展カタログ表紙。

Anya Gallaccio
Towards the Rainbow
1995
real / life new british art