カテゴリー別アーカイブ: 出品作家

ホームページの更新(最終版)

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展覧会場の風景を含むページを追加しました。こちらからご覧ください。

手前:平田星司 Propagandists 2014〜2015年 海中から拾ったボトル、海綿他
奥:中根秀夫 Memories 1995年~  1770 x 840 mm(2枚) 青焼コピー(褪色していく)、ラミネート

展示はいよいよ本日(19日)17時までです

昨日は李美那さんを囲んでのトークに多くの方々がお越しくださいました。この場をお借りして御礼申し上げます。参加者で私にとっても李さんにとっても先輩である故小林潔史さんについて、この20年の日本の日本の美術の流れを俯瞰しながらお話をしてくださいました。
さて、展示は本日17時までとなっております。どうぞお見逃しなく。

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小林潔史さんのこと/李美那さん(神奈川県立近代美術館学芸員)のトーク

5年間で5800個という驚異的な小宇宙を作り1994年30歳の若さで亡くなった「ロイヤルさん」こと小林潔史さん。今回ご遺族から晩年の作品から28個をお借りして展示しています。そして、18日(土)17:30より 当時の小林さんを知る李美那さん(神奈川県立近代美術館学芸員)のトークがあります。李さんの担当された2011年の神奈川県立近代美術館葉山館で開催された《ベン・シャーン》展は記憶に新しいですね。また現在開催中の《ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く》展を担当され、ご多忙の中トークにいらしてくださいます。入場無料。

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P1000392これは最後に入院する前1ヶ月ぐらいのものから。


 

私は留学先のロンドンで「ロイヤルさん」の訃報を聞きました。1994年12月。下は私の94年11月の作品。日付が041194と入っている。ロイヤルさんは入院中か。

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ロイヤルさんの《5746 1993.9.3 白いカガミの中に映る顔》2014-12-13 10-59-30

下は《5746 1993.9.3 白いカガミの中に映る顔》をもとに作った私の作品
《白いカガミの中に》1995年 カガミ、サンドブラスト加工。

IMGP1759よく見えない…。カガミの中に閉じ込められた自分。

展覧会もこの週末を残すのみ。是非いらしてください。

宅 Shoomy 朱美さん企画ライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version

宅 Shoomy 朱美さん企画によるライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version
宅 Shoomy 朱美 さん( P.Vo )、かみむら泰一さん(Ts・Ss)、落合康介さん(B)実はジマジンにはfenderローズが! シューミーさんとローズは相性バッチリ。楽しかった!ありがとうございました。

P1000480 P1000509 P1000526 実はゴジラの話で盛り上がっている3人。

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IMG_2434ローズの中身。コイルが見える。

エステティック・ライフ - オートマチック展は19日(日)まで

エステティック・ライフ - オートマチック展は19日(日)まで。いよいよ残り4日間となりました。皆様どうぞお見逃しの無いよう。

P1000346 平田星司 《Dalilah 》 2015 27 x 26 cm キャンバスに水彩、アクリル

P1000375中根秀夫 《Memories 1994  1770 x 840 mm(2枚) 青焼コピー(褪色していく)、ラミネート

前回の平田/中根の二人展から5年間、アミカン・トーレン氏の企画した伝説的展覧会『The pleasure of aesthetic life』を受けて「自分たちが見たい展覧会」について二人で語り尽した結果の今回の展示。

ウエダ・リクオさんはアミカン・トーレン氏が光州ビエンナーレで会った「素晴らしい日本人」の作家という名前すらわからない状態から平田が探し当てた作家であり、鈴木智惠さんは知人の作家の出品する大きなグループ展で偶然見つけた作家であったりする。それこそ「初めまして」から、そして企画書を送って「こういう趣旨の展覧会に作品を貸していただけないか」と懇願して参加していただいたのだ。小林潔史さんは30歳の若さで亡くなった先輩で、ご遺族で小林さんの弟である篤史さんとお墓参りに行くところから始まった。

今回の展示がアーティスト同士で行うグループ展と違うのは、企画者である私と平田がそれぞれの作家の出品作品までを決めているという点にある。エステティック・ライフというテーマで、そしてオートマチックというテーマにふさわしいものを時間をかけて吟味した。大阪までウエダさんに会いに行ってドローイング3点を決めてきたし、小林さんは5800個からカタログで吟味した。難しい決断だが時期と形態の特徴、そしてタイトルから28個に絞った。ご家族がいらして「私の誕生日の日のが無い!」と仰られた時にはさすがに申し訳なく思ったが、でも作品も展示方法も本人不在(当然だ)で、ノートを参照しながら私たち自身が決めた。鈴木さんは4度展覧会に足を運び、これ以外無い大型の版画3点を選んだ。結果として2010年と2011年の作品となり、若い気鋭の作家にとっては最新作を選べず可哀想なことをした。それでも私たちが全て責任を持ってこのエステティック・ライフ - オートマチックという展覧会を構成したのだということはここに記しておきたい。そう、テキストをいただいた鎮西芳美さんも、私がこれまで見てきた多くの展覧会のカタログの文章を吟味して、このテーマに最もふさわしい方として「是非に」とお願いしたのだ。幸いにしてどなたからも断られなかったことは私たちの誇りだが、そんな企画書がいきなり自分のところに届いたらかなりビビるだろうと、本当に申し訳無く感じてはいる。

すでに多くの作家の友人が訪れてくれたし、美術以外の友人も展覧会を楽しんでくれている。ふらりと一人で来た友人が奥さんを連れて再び訪れてくれたのは嬉しかった。小林さんの作品を通して多くの人が繋がり足を運んでくれていることも感謝している。(中根)

Aesthetic Life – Automatic のための覚え書き

鎮西 芳美 Yoshimi Chinzei

本展は、2010年に中根秀夫・平田星司両氏が企画した『Aesthetic Life』展の続編である。前回の展示は、1990年代半ばにロンドンで美術を学んでいた二人が、帰国後各々の発表を経て後いわば満を持して提示したものであったものと言う。「と言う」としたのは、残念ながら私はそれを見ておらず、だから本当は、このようなテキストを書くということに、正直、戸惑いを感じてもいる。一方、彼ら二人の企画の端緒が過去に行われたひとつの展覧会であったということは、日頃美術館で展示に携わっている私にとって特に興味深いことであった。したがって、拙文を寄せるにあたって何か接点を探すとすれば、やはり「展覧会」ということになろうか。これより先、それを頼りに「aesthetic life」について考える糸口を掴みたいと思う。

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 さて、その1990年代半ばの95年というのは私の勤めている美術館が開館した年で、その3年後の98年、同時代のイギリス美術を紹介する『リアル/ライフ イギリスの新しい美術』が開かれた。90年代のイギリスの“アートシーン”はいわゆるYBAs(Young British Artists)の席巻として語られてきたが、その嚆矢は1988年のダミアン・ハーストによる企画展『フリーズ』といえる。なので、展覧会が開催される98年というのはそれから10年が経過した時期で、結果、作家の世代的にも作品のタイプ、制作年に関しても、幅を持った作品が選ばれたように記憶している。現地調査は96年と97年に実施され、私は97年のそれに参加した。企画者二人の英国体験と重なる時期を少しく含んでいる1。

展覧会の出品作家の一人、アニャ・ガラッチョ(Anya Gallaccio 1963年、スコットランド、グラスゴー生まれ)は、その中で唯一、本展の起点となったアミカン・トーレン氏の企画展『The pleasure of aesthetic life』(1996, The Show Room, London)と出品が重なっている作家である。彼女の作品について少し詳しく述べよう。彼女の当時の作品は、しばしば有機的な素材を数多集合させ、その経過や劣化の様子を提示し続けるという特徴を持っていた。いわば時間と空間の制限において成り立つ作品である。私たちの展覧会では、壁面とガラス板の間に赤いガーベラを挟み、会期中いわば放置する作品(Red-Door, 1998, ガーベラ、ガラス)などを展示した。およそ2カ月の会期をとおして花は枯れてゆき、生気は失われ、全体がおおよそ暗い色調に変化を遂げる作品で、今振り返っても、私たちは誰一人「同じ」作品に出会っていないのだということにあらためて驚く(あるいはそもそも「同じ花」があり得ようか?)。トーレン氏の展覧会に出品された、木製の脚に置かれたガラス板の上で無数のろうそくが燃え続ける作品(No Better Place Than This, 1995, ろうそく、ガラス、木)も同じ頃の制作である。双方とも、時間の経過とともに、作品の外見のみならず、匂いや、明るさ、後者の場合は温かさといったその場の空気までをも変容させる性質をもち、作家本人が写真記録を作品としていない以上、まさにその場においてのみ成立する作品であった。「時間の経過とともに」と述べたものの、私たちが展示の場にいる「時間」は実際その「経過」を緊と感じるほどではなかったりする。「経過」を感じるには、きわめて微細な観察、あるいはその作品の“ここにはない拡張された過去と未来”を想像するしかない。作品の“ある状態”との出会い、という事態こそが彼女の作品の要諦の一つであり、それは広く時間と空間をめぐる洞察へと私たちを誘うものだ。このようなガラッチョの作品は、「イギリス、現代」というより大きな括りを背景に社会の現在に対する批評的な問いかけを含む作品群を多く紹介した私たちの展覧会の中では、少し異質であったように思う。素材的にも内容的にも、そしておそらく参照している過去の作品の伝統においても。しかしそれゆえかえって印象的であったのは、それが群を抜いて内省的で、したがって作品の含む意味の射程が広いこと、そして何と言うか、静けさがあったことだ。予め設定された枠組みや領域の思いがけない逸脱として見えてくる部分、そこにこそ、その作品を成り立たせる何か核のようなものが潜むといえそうだ。

対して、トーレン氏の展示ではどうだったのだろうか。60年代から90年代という幅広く多様な作品から構成された展覧会についての自身のコメントは「この展覧会はテーマがない」というものだ。個々の意味を固定してゆくストーリーやコンテクストではない、「別の何か」の表明がここではタイトル(『The pleasure of aesthetic life』)によってなされている。ガラッチョの作品はその中で、いわば文脈を宙吊りにされてそれ自身が在り、同様の仕方で在る他の作品と関わり合うことになる。『リアル/ライフ』において彼女の作品が垣間見せたその射程の広さは、トーレン氏の空間においてまた異なる相を見せていたはずだ。

どちらが良いかという比較は無意味だろう。しかしここで端的に(自分に引き付けて)思うのは、私たちは昨今、テーマを掲げた展覧会を見る流儀があまりに染みついているのではないかということだ。特に美術館における「展覧会」のフォーマットに浸っているうちに(それは歴史的には相当浅いものであるはずなのに)、作品にかかわる別の仕方、他の可能性はつい後方へ退いてしまう…。意味のない組み合わせはあり得ないとしても、別様の作品体験の可能性があるのではないか。「美術」の辿ってきた歴史を振り返ればそれはむしろ基本的なことで、作家たちはそのことにずっと前から気づいていて、その可能性を常にさぐっていたし、今もいる。60年代の作家たちの行動はそれを端的に裏付けるだろう2。しかし、「展覧会」の姿をとったトーレン氏の企画もそれを志向していると言えないか。形式としての「展覧会」を、作品本体の力によってその内側から、自ずから更新してゆくこと、そのように思われる氏の展示はそれゆえに美術館で働く者にとって考察を促すし、魅力的に映る。

作家である二人の企画者によってここで目指されているのも同様の可能性と言えるだろう。それをたとえば、別様の、ある作品体験の可能性、と呼んでみると、彼らがトーレン氏からいわば移植された「aesthetic life」の一面が見えてくるのではないだろうか。「感性的知覚(aesthêsis)」を語源とするこの語は、ひろく感受性、感性について問い考えるものと捉えられる。「感性とは、刺戟に応答する身体化された記憶の活性」である。外からの刺戟は内に反響し、ふだんは意識化されない細部、散らばった要素が一挙に総合される。感性とは、より深くは「対象の(あるいは世界の)性質を知覚しつつ、わたしのなかでその反響を倍音として聴くはたらき」であり、その「反響の空間」は「実存の領域」にまで及ぶ3。それは個々の作品について生じることもあるが、ひろく自然、現象などに対しても起こる。あるいは(これは個人的に不思議なのだが)、展覧会の最初の部屋に足を踏み入れた途端、文脈や意味の手前で「これはよさそうだ」と不意に思えたことはないだろうか?本展『aesthetic life』について言うならば、それが何よりも過去の展覧会の記憶に端を発していることをここで今一度強調したい。その展覧会の「よさ」について、企画者の一人である平田氏は繰り返し述べていた。曰く、それぞれの作品の性質、作品同士の目配せ、メディアの制限を設けない自由さ、わくわくするような感じ…。その「よさ」の感覚を反芻できること――自身のなかで記憶が倍音となって反響していること――はまさに「pleasure of aesthetic life」であるというべきだろう。決して残ることのないガラッチョの作品が想起され、語られることも。

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 このたびの展示では、「Automatic」という語が登場した。前回は二人展として構成されていたものが、今回はあらたに3名の作家(および1冊の本をめぐる2名のイギリス人アーティスト)を迎えてのグループ展になるという。個々の作家、作品を緩やかに集合させたのは「automatic」という語(あるいはシステム?)だと聞いている。その出会いにおいて生じる「反響」を待ちたい。

ところで「反響」は、こちらからの働きかけでありながら、むしろ作品がこちらに対してそれに向かわせる呼びかけであるといえる。「テーマのない」展覧会は、その意味でじつはより高い壁であろう。

そう、その呼びかけはどうなされて、誰がどう受け止め、あるいは受け止め(られ)ないのか。その呼びかけに対する応答――「反響」は「automatic」といってよいのか、どうか。私はここまで「作品」について述べてきたけれども、「aesthetics」は、自然界の現象や社会自体といった私たちの外側にあるものを広く対象とするのだった。そのとき「automatic」は、言葉遊びにしてはいささか不穏なものとなろう。それは私たちの意識を感染させてゆくだろう、そこになお響く「倍音」とは。

[ちんぜい よしみ 東京都現代美術館 学芸員]

1 『リアル/ライフ イギリスのあたらしい美術』展、1998年4月12日から1999年3月14日にかけて、栃木県立美術館、福岡市美術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、芦屋市美術博物館を巡回。なお、作品データ等を除く当展についての記述は筆者個人の見解である。

2 数多の美術動向に加え、1972年に開催された『ドクメンタ5』に対する、カール・アンドレ、ロバート・モリス、ロバート・スミッソンらの抗議文など。

3 佐々木健一『日本的感性』2010年、中央公論新社、pp.8-18

 

参考図版『リアル/ライフ イギリスのあたらしい美術』展カタログ表紙。

Anya Gallaccio
Towards the Rainbow
1995
real / life new british art

展示風景

今日は平田星司の《Propagandists》を囲んで。

2015-04-09 18-46-18後ろに中根秀夫の《Memories》と《Flowing down》。

2015-04-09 18-47-04後ろに《ウエダ リクオ》の《Wind Drawing》。

11日(土)17:30〜 鎮西 芳美 (東京都現代美術館学芸員)を囲んでトークセッションがあります。ぜひいらしてください。予約不要。1時間程度。当日は大阪からウエダ リクオさんも駆けつけてくださいます。

 

展覧会イベントについて

『エステティック・ライフ – オートマチック』展が始まりましたが、見逃せないイベントが目白押しです。


関連企画 トークセッション

現在活躍中の学芸員お二人をお迎えしてトークセッションを行います。予約不要。各回ともに1時間程度。

11日(土)17:30〜 鎮西 芳美 (東京都現代美術館学芸員)
18日(土)17:30〜 李 美那 (神奈川県立近代美術館学芸員)

▶︎トークセッションについて


 特別連携企画

宅 Shoomy 朱美さん企画ライブ “ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version
展覧会期間中の4/16( 木 ) に、シューミーさんこと宅 Shoomy 朱美さんが、外苑前のZ.imagineで(トキ・アートスペースも外苑前です)展覧会に連携するライブを企画してくださいました。4月16日( 木 )は皆さまもぜひ展覧会→ライブとお楽しみください。

4月16日( 木 ) 外苑前 「Z・imagine」
“ Personal landscape ” Aesthetic Life – Automatic Version

宅 Shoomy 朱美 ( P.Vo )
かみむら泰一(Ts・Ss)
落合康介(B)
open 19:30 start 20:00
charge ¥2500(drink 別)
ジマジン TEL:03-3796-6757
港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F
地下鉄銀座線外苑前、2番3番出口すぐ


2015-04-07 16-28-24中根秀夫
Flowing down 420 x 298 mm ガラス、サンドブラスト加工、鉄

2015-04-07 18-11-12

エステティック・ライフ - オートマチック

Aesthetic Life – Automatic

 

より健全なコラージュは自動装置(オートマチック)を微調整し、昏睡状態のシュルレアリストたちを誉めそやす/…/巨大な騒ぎは続いて起こる/…

ピーター・スティックランド 『Automatic』より

 

全ては1冊の本から始まる。アミカン・トーレンがローマ滞在中に描いた、どこか欲望を喚起するオートマチック・ドローイングは、ピーター・スティックランドの手に引き渡された。オウィディウスの『変身物語』巻15「ジュリアス・シーザーの神化」からシーザーの暗殺を予兆(portents)するいくつかのセンテンスが抽出され、それはまたオートマチックに分節化されると、オートマチックにドローイングを欲望しては渾然一体となり、遂にはこの世界を予兆する70章の新たなテキストとして再生産される。『ROME automatic』はかくの如く存在する。

本という形式はオートマチックを欲望する。本を手に取るという行為はまさにオートマチックであり、人はオートマチックにページを繰るだろう。ページはまた次のページへとオートマチックに受け渡され、オートマチックに物語を発生させるだろう。オートマチックな空間に立ち上がった物語は、また受け手によってオートマチックに欲望され、新たな物語としてオートマチックに読み替えられねばならない。

『ROME automatic』は、展覧会の企画者のひとり平田星司によって日本語空間に解放される。時空は歪みながら古代ローマから英国を経て日本に到達するが、またそれは同じ筋道を遡っていく行為でもある。全てはオートマチック自身の欲望なのだ。「エステティック・ライフ」とは、1996年にロンドンで開催された『The pleasure of aesthetic life』展と、それを企画したアミカン・トーレンに捧げるオマージュである。そして全てはオートマチックが仕掛けた欲望であり、そして罠でもある。

巨大な騒ぎは続いて起こる…。ウエダ リクオは風を奏でる装置として、オートマチックにドローイングを生成するシステムを構築する。詩は生まれ言葉は生まれる。小林潔史は手のひらに自身の体温と地球の重さを感じる。だがそれが真にオートマチックを纏うのは、手のひらに自らの死をそっとのせてからだろう。言葉は失われる。

鈴木智惠の眼は自らの皮膚である服を捉える。服を縫う眼とそれを板上にトレースする眼はオートマチックに等価である。平田星司は支持体とメディウム(皮膜/皮膚)の関係あるいは無関係を宙吊りにし視覚化させる。プロセスは常態的にオートマチックである。中根秀夫は観る者の記憶に交感する視覚装置を調整する。水滴はオートマチックに流れ落ち、意識の中で視覚は失われる。

[ H.N ]

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ROME automatic “Bombshell”
ドローイング: Amikam Toren 詩: Peter Stickland 翻訳:平田星司

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