Lemon—展示のための試論
「檸檬」[1]は、梶井基次郎(1901年〜1932年)の代表作であり、多くの人に愛される珠玉の逸品だと言えよう。自らを抑圧する得体の知れない「不吉な
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肝心な檸檬爆弾も本人の期待程には世間の耳目を集められず、持病の結核の悪化で体調もすぐれずに焦燥に駆られる梶井が、翌26年(大正15年)に仕掛けた次なる爆薬が「Kの昇天—或はKの溺死」(『青空』通巻20号)だ。療養先のN海岸で出会った青年Kの謎の死について、Kとの1ヶ月程の交流を思いつくままに語る書簡形式の小説である。
寝つかれず、寝床を抜け散歩に出た「私」は、満月に照らされた自らの「影」と戯れる青年と遭遇する。青年は「私」に背を向け、砂浜を前に後に歩いたり、あるいは立ち止まったりと不可解な行動をする。その行為に惹き込まれた「私」は、口笛でシューベルトの『海辺にて』、続けて『二重人格(ドッペルゲンゲル)』を吹き、その場への介入を試みる。
二つの曲は、ともにフランツ・シューベルト(1797年〜1828年)の死後にまとめられた歌曲集『白鳥の歌』にある。第12番「海辺にて/ Am Meer」と第13番影法師/ Der Doppelgänger」。それぞれ、ハインリヒ・ハイネ(1797年〜1856年)を世に知らしめた抒情詩集『歌の本』(Buch der Lieder 1827年)の「帰郷」という詩篇から取られており、小説「Kの昇天」の主題と深く関わる第20詩(影法師・二重人格・ドッペルゲンゲル)は、かなわぬ恋に苦しんだ過去の自分を幻(ドッペルゲンゲル)に見て戦慄する「男」の話で[2] 、シューベルトの曲では高らかに歌い上げられる場面でもある。
月あかりに まぎれもない このおれの顔
おお おれに生き写しの 青ざめた男よ
なぜ まねるのか おれの恋のなやみを
「私」の口笛(素人が吹くには難しい曲だが)は、Kへの無意識の呼びかであり、それは極めて文学的な問いでもある。そして彼は「私」の呼びかけの『ドッペルゲンゲル』に気づいてもいる。Kは自らの「影」と戯れる理由について語る。
満月に照らされた自らの「影」は、次第に人格を持ち、意識は自らの肉体から遠のいていく。「魂」が月に向かって昇っていくような感覚になるとKは言う。彼はラフォルグの詩の一節を引き「何遍やってもおっこちるんですよ」と月へのかなわぬ思いを打ち明ける。
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去年2021年夏、自分の個展のテキスト「Stay out, stay home」のエピグラフに、ジュール・ラフォルグの「冬が来る」(吉田健一訳)を引用した[4]。はからずも、ここ梶井基次郎の小説にラフォルグの亡霊を見る。
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ジュール・ラフォルグ(1860〜1887)は、フランスの象徴主義詩人で夭折かつ肺病病みでもあったので、梶井もどこか重なる思いを得たのだろうか。「Kの昇天」でのイカルスの引用は、若きラフォルグの第3詩集『聖母なる月のまねび』の「月光」の一節にある。日本では1919年に刊行された上田敏(1874〜1916)の訳詩集『牧羊神』[5]に収められており 、梶井も、ほぼリアルタイムでこの詩に触れたことだろう。
ああ月は美しいな、あのしんとした
夏八月の
帆柱なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと
ああ往つてみたいな、無暗に往つてみたいな、
尊いあすこの水盤へ乘つてみたなら
お月さまは盲だ、
哀れなる
月を見る作者のまなざしはなんとも感傷的だ。結びは以下のようになる。
大洪水に洗はれて、さつぱりとしたお月さま、
解熱の効あるその光、今夜ここへもさして來て、
この浮世から手を洗ふべく候。
最後のひとつとなった睡眠剤の丸薬を手に、自らの寝台に冷たい月の光が漲るのを見る。「ああ月は美しいな」という素朴な感傷は、生きることとの戦いに疲れた自らの感覚から滲み出てくるものである。そしてこの引用は、語り手である「私」によって再び見出される。青年Kも「私」もラフォルグも梶井もみな「肺病」病みであり、全ては「影」に連なる分身/ドッペルゲンゲルである。Kの「影」は「私」の「影」であり、また「私」が語る書簡の相手である見ず知らずの「あなた」の「影」でもあり、この本を手に取る全ての者の分身/ドッペルゲンゲルでもあるだろう。
2022年4月
桜の季節を終えたばかりの銀座、東京にて。
追記1.
爛熟する大正文化の「光」の中で、梶井基次郎は音楽を愛し(楽譜も読めたという)国内外の文学に触れ、あるいは銀座で洋食をたしなむグルメ、かつバターは小岩井、紅茶はリプトンのグリーン缶などとこだわりを持ち、丸善や鳩居堂で文房具やフランス製の高級石鹸を手に取る粋人ではあった[6]。一方で、大正末期1925年(大正14年)に発表された「檸檬」の話に戻れば、得体の知れない「不吉な
梶井基次郎の父宗太郎は、母ひさとの結婚当初、海運会社で軍需品の輸送の仕事に就いており、日露戦争の特需で潤い日々放蕩な生活を送っていたという。日本はその戦争に勝利はしたが、そのこと以上に西欧列強とアジア、アメリカをめぐる国家間の均衡が大きく揺れ動いた時代でもあった。第一次世界大戦では日英同盟のもと連合国として参戦し、それは結果的に日本の貿易を加速させ、空前の好景気をもたらすこととなる。宗太郎の勤める鉄工所もまた陸軍・海軍
まだ京都に住んでいた梶井にとって、1923年9月の関東大震災はリアルな現実ではなかったようだ。その後東京帝国大学に合格し、東京での交友を広げつつ『青空』での活動に没頭するのだが、時代は否が応でも軍国主義へと傾斜していく。1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御し、即日「昭和」へと改元される。そこからわずか1週間で昭和元年を終え、1927年1月、梶井の「冬の日」(前篇)を載せた『青空』第24号が発行される。「冬の日」では、物語全体が鉛色のトーンに覆われ、過去の記憶に中に時折見える色彩は随分と「遠く」感じられる。文壇はすでにプロレタリア文学であふれていたが、梶井自身は徹底的に「視ること」に集中する一方で、同号に掲載された北川冬彦の一行詩「馬』の「軍港を内臓してゐる[7]」に注目し、激賞する。
1927年6月出版の28号を最後に雑誌『青空』は終刊を迎える。その頃にはもう同人全員が金銭の工面に窮していたわけだ。その後北川冬彦は、詩集『戰爭』(1929年刊行)で脚光を浴びるが、梶井は『文學』11月号にその書評を寄せている[8]。梶井は冷静な筆致で、まずは北川の詩の「意志」を評価する。上述の一行詩「馬」では、「軍港」の二文字が既に「軍港のヴイジョン」を伴っていることを指摘し、加えてその感覚の速度が「物質の不可侵性」を侵す「キュビズム的」な構造を持っていると看破する。梶井はまた、北川の新しい「視野」であり、かつ同時に「苦」をも強いる正体である「階級」の存在を見とめる。梶井自身は自らの「不吉な塊」に「階級」を描くことは無かったにせよ、それが梶井に見えていなかったということではない。「冬の日」は、風景描写と心理描写が分かち難く結びついた小説だが、その視線の先に、労働者の存在をさりげなく描き込んでもいる[9]。
1931年(昭和6年)5月、梶井初の創作集『檸檬』が刊行され、ついにその評価を手にするのだが、翌1932年(昭和7年)3月24日に、肺結核に苦しみながら31年の生涯を全うする。作家としての7年の活動期間は、短くも濃密なものだと言えよう。
しかし、梶井の亡くなる直前の3月1日には満洲国が建国され、その後程なく5.15事件が起きる。そんな時代でもあるのだ。
追記2.
2022年。この春はことのほか美しく咲く桜の姿に心を踊らされた。最後にもうひとつだけ梶井の小説から引用する。
なかねひでお
- 「檸檬」『梶井基次郎全集 全1巻』ちくま文庫、1986年
- 『ハイネ前詩集 第一巻 歌の本』 井上正蔵訳 角川書店、1973年。「帰郷」(Die Heimkehr)より、14詩(海辺にて)および20詩(影法師)。今後10年にわたる分裂と混沌の時代を生きるハイネの、若い魂を象徴するロマン主義詩篇である。原詩にはタイトルは振られていない。
- 「Kの昇天–或はKの溺死」『梶井基次郎全集 全1巻』p.133
- 「冬が来る」ジュール・ラフォルグ(吉田健一訳)『ラフォルグ抄』 講談社文芸文庫、2018年「英国海峡の方から吹き寄せられた雲が 私達の最後の日曜日を台なしにしてしまった。」
- 「月夜」ジュール・ラフォルグ『上田敏全訳詞集』山内義雄・矢野峰人編 岩波文庫、1962年 梶井基次郎の引用では「イカルスが幾人も來てはおつこちる。」だが上田の訳では『イカルスが幾人も來ておつこちる。』となっている。
- 以下、梶井基次郎についての多くの知見は、『評伝梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』柏倉康夫 左右社、2010年の記述による。
- 「馬」『北川冬彦詩集』鶴岡義久編 沖積社、2000年
- 「詩集『戦争』」初出「文學 第三号」第一書房、1929年
- 「冬の日」『梶井基次郎全集 全1巻』「一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。」p.148、「その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴を揮っている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。」p.155
- 「桜の樹の下には」初出『詩と詩論 第二冊』1928年