Aesthetic Life – Automatic のための覚え書き

鎮西 芳美 Yoshimi Chinzei

本展は、2010年に中根秀夫・平田星司両氏が企画した『Aesthetic Life』展の続編である。前回の展示は、1990年代半ばにロンドンで美術を学んでいた二人が、帰国後各々の発表を経て後いわば満を持して提示したものであったものと言う。「と言う」としたのは、残念ながら私はそれを見ておらず、だから本当は、このようなテキストを書くということに、正直、戸惑いを感じてもいる。一方、彼ら二人の企画の端緒が過去に行われたひとつの展覧会であったということは、日頃美術館で展示に携わっている私にとって特に興味深いことであった。したがって、拙文を寄せるにあたって何か接点を探すとすれば、やはり「展覧会」ということになろうか。これより先、それを頼りに「aesthetic life」について考える糸口を掴みたいと思う。

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 さて、その1990年代半ばの95年というのは私の勤めている美術館が開館した年で、その3年後の98年、同時代のイギリス美術を紹介する『リアル/ライフ イギリスの新しい美術』が開かれた。90年代のイギリスの“アートシーン”はいわゆるYBAs(Young British Artists)の席巻として語られてきたが、その嚆矢は1988年のダミアン・ハーストによる企画展『フリーズ』といえる。なので、展覧会が開催される98年というのはそれから10年が経過した時期で、結果、作家の世代的にも作品のタイプ、制作年に関しても、幅を持った作品が選ばれたように記憶している。現地調査は96年と97年に実施され、私は97年のそれに参加した。企画者二人の英国体験と重なる時期を少しく含んでいる1。

展覧会の出品作家の一人、アニャ・ガラッチョ(Anya Gallaccio 1963年、スコットランド、グラスゴー生まれ)は、その中で唯一、本展の起点となったアミカン・トーレン氏の企画展『The pleasure of aesthetic life』(1996, The Show Room, London)と出品が重なっている作家である。彼女の作品について少し詳しく述べよう。彼女の当時の作品は、しばしば有機的な素材を数多集合させ、その経過や劣化の様子を提示し続けるという特徴を持っていた。いわば時間と空間の制限において成り立つ作品である。私たちの展覧会では、壁面とガラス板の間に赤いガーベラを挟み、会期中いわば放置する作品(Red-Door, 1998, ガーベラ、ガラス)などを展示した。およそ2カ月の会期をとおして花は枯れてゆき、生気は失われ、全体がおおよそ暗い色調に変化を遂げる作品で、今振り返っても、私たちは誰一人「同じ」作品に出会っていないのだということにあらためて驚く(あるいはそもそも「同じ花」があり得ようか?)。トーレン氏の展覧会に出品された、木製の脚に置かれたガラス板の上で無数のろうそくが燃え続ける作品(No Better Place Than This, 1995, ろうそく、ガラス、木)も同じ頃の制作である。双方とも、時間の経過とともに、作品の外見のみならず、匂いや、明るさ、後者の場合は温かさといったその場の空気までをも変容させる性質をもち、作家本人が写真記録を作品としていない以上、まさにその場においてのみ成立する作品であった。「時間の経過とともに」と述べたものの、私たちが展示の場にいる「時間」は実際その「経過」を緊と感じるほどではなかったりする。「経過」を感じるには、きわめて微細な観察、あるいはその作品の“ここにはない拡張された過去と未来”を想像するしかない。作品の“ある状態”との出会い、という事態こそが彼女の作品の要諦の一つであり、それは広く時間と空間をめぐる洞察へと私たちを誘うものだ。このようなガラッチョの作品は、「イギリス、現代」というより大きな括りを背景に社会の現在に対する批評的な問いかけを含む作品群を多く紹介した私たちの展覧会の中では、少し異質であったように思う。素材的にも内容的にも、そしておそらく参照している過去の作品の伝統においても。しかしそれゆえかえって印象的であったのは、それが群を抜いて内省的で、したがって作品の含む意味の射程が広いこと、そして何と言うか、静けさがあったことだ。予め設定された枠組みや領域の思いがけない逸脱として見えてくる部分、そこにこそ、その作品を成り立たせる何か核のようなものが潜むといえそうだ。

対して、トーレン氏の展示ではどうだったのだろうか。60年代から90年代という幅広く多様な作品から構成された展覧会についての自身のコメントは「この展覧会はテーマがない」というものだ。個々の意味を固定してゆくストーリーやコンテクストではない、「別の何か」の表明がここではタイトル(『The pleasure of aesthetic life』)によってなされている。ガラッチョの作品はその中で、いわば文脈を宙吊りにされてそれ自身が在り、同様の仕方で在る他の作品と関わり合うことになる。『リアル/ライフ』において彼女の作品が垣間見せたその射程の広さは、トーレン氏の空間においてまた異なる相を見せていたはずだ。

どちらが良いかという比較は無意味だろう。しかしここで端的に(自分に引き付けて)思うのは、私たちは昨今、テーマを掲げた展覧会を見る流儀があまりに染みついているのではないかということだ。特に美術館における「展覧会」のフォーマットに浸っているうちに(それは歴史的には相当浅いものであるはずなのに)、作品にかかわる別の仕方、他の可能性はつい後方へ退いてしまう…。意味のない組み合わせはあり得ないとしても、別様の作品体験の可能性があるのではないか。「美術」の辿ってきた歴史を振り返ればそれはむしろ基本的なことで、作家たちはそのことにずっと前から気づいていて、その可能性を常にさぐっていたし、今もいる。60年代の作家たちの行動はそれを端的に裏付けるだろう2。しかし、「展覧会」の姿をとったトーレン氏の企画もそれを志向していると言えないか。形式としての「展覧会」を、作品本体の力によってその内側から、自ずから更新してゆくこと、そのように思われる氏の展示はそれゆえに美術館で働く者にとって考察を促すし、魅力的に映る。

作家である二人の企画者によってここで目指されているのも同様の可能性と言えるだろう。それをたとえば、別様の、ある作品体験の可能性、と呼んでみると、彼らがトーレン氏からいわば移植された「aesthetic life」の一面が見えてくるのではないだろうか。「感性的知覚(aesthêsis)」を語源とするこの語は、ひろく感受性、感性について問い考えるものと捉えられる。「感性とは、刺戟に応答する身体化された記憶の活性」である。外からの刺戟は内に反響し、ふだんは意識化されない細部、散らばった要素が一挙に総合される。感性とは、より深くは「対象の(あるいは世界の)性質を知覚しつつ、わたしのなかでその反響を倍音として聴くはたらき」であり、その「反響の空間」は「実存の領域」にまで及ぶ3。それは個々の作品について生じることもあるが、ひろく自然、現象などに対しても起こる。あるいは(これは個人的に不思議なのだが)、展覧会の最初の部屋に足を踏み入れた途端、文脈や意味の手前で「これはよさそうだ」と不意に思えたことはないだろうか?本展『aesthetic life』について言うならば、それが何よりも過去の展覧会の記憶に端を発していることをここで今一度強調したい。その展覧会の「よさ」について、企画者の一人である平田氏は繰り返し述べていた。曰く、それぞれの作品の性質、作品同士の目配せ、メディアの制限を設けない自由さ、わくわくするような感じ…。その「よさ」の感覚を反芻できること――自身のなかで記憶が倍音となって反響していること――はまさに「pleasure of aesthetic life」であるというべきだろう。決して残ることのないガラッチョの作品が想起され、語られることも。

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 このたびの展示では、「Automatic」という語が登場した。前回は二人展として構成されていたものが、今回はあらたに3名の作家(および1冊の本をめぐる2名のイギリス人アーティスト)を迎えてのグループ展になるという。個々の作家、作品を緩やかに集合させたのは「automatic」という語(あるいはシステム?)だと聞いている。その出会いにおいて生じる「反響」を待ちたい。

ところで「反響」は、こちらからの働きかけでありながら、むしろ作品がこちらに対してそれに向かわせる呼びかけであるといえる。「テーマのない」展覧会は、その意味でじつはより高い壁であろう。

そう、その呼びかけはどうなされて、誰がどう受け止め、あるいは受け止め(られ)ないのか。その呼びかけに対する応答――「反響」は「automatic」といってよいのか、どうか。私はここまで「作品」について述べてきたけれども、「aesthetics」は、自然界の現象や社会自体といった私たちの外側にあるものを広く対象とするのだった。そのとき「automatic」は、言葉遊びにしてはいささか不穏なものとなろう。それは私たちの意識を感染させてゆくだろう、そこになお響く「倍音」とは。

[ちんぜい よしみ 東京都現代美術館 学芸員]

1 『リアル/ライフ イギリスのあたらしい美術』展、1998年4月12日から1999年3月14日にかけて、栃木県立美術館、福岡市美術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、芦屋市美術博物館を巡回。なお、作品データ等を除く当展についての記述は筆者個人の見解である。

2 数多の美術動向に加え、1972年に開催された『ドクメンタ5』に対する、カール・アンドレ、ロバート・モリス、ロバート・スミッソンらの抗議文など。

3 佐々木健一『日本的感性』2010年、中央公論新社、pp.8-18